夕立 天真文庫
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 朝から強い日差しに照らされた、ある夏休みの午後。仲の良い小学一年生の直樹と優作は近くの水田に遊びに出かけていた。子供達にとって田んぼは無限の遊び場であり、また未知の世界でもあった。めだかや蛙、蝶や小鳥が遊んでいる。亀がいることもあれば、時には蛇も出る。用水路には田螺やザリガニがいて、毎日が新しい発見に満ち溢れている。今日もいつものように白いランニングシャツと半ズボンで、直樹と優作はそこら中を駆け回っていた。

 直樹は神経質な性格だったから裸足で用水路に入るのが嫌だった。ぬるっとした泥の感触が嫌いだったし、またその中に何がいるかわからないと考えただけで怖気づいていた。優作はそんなことはお構い無しだ。冷たい水が足元を流れていく感触が好きだった。たかが用水路、深いところでも小学生の腿くらいまで、幅は広いところでもせいぜい二メートルくらいのもの。でも小学校に上がったばかりの二人にとって、それは大きな川のようであったし、事実、用水路というのは流れの緩やかな川だと思っていた。直樹は恐いもの知らずに遊びまわる優作を羨ましくもあり、またもしザリガニに足を挟まれたらどうするんだろうと心配もしていた。だから優作が、もう帰ろうと言ったときにはちょっと安心した。そろそろ夕立が来そうだった。

 そのとき優作は用水路のこちら岸に靴を脱いで、裸足で向こう岸に渡っていた。直樹はこちらで靴を履いたままだ。用水路脇の大きな石の上から、優作は直樹に靴を投げてくれと言った。もう一度こちらに渡って足を濡らすのが嫌だったのだろう。直樹は軽い気持ちでそれに応じ、優作に向かって両方の靴を投げた。しかし、その靴たちは無常にも優作の手前で放物線を描きながら、そこだけ流れが早くなっている用水路の中へ落ちていった。少し段差のあったその場所は、ちょうど滝壷のように靴を飲みこみ、そしてあっという間に流されて見えなくなってしまった。

 二人は唖然とした。事態を飲み込むまでにそれほどの時間はかからなかったが、先ほど弧を描いて落ちていった靴の残像が鮮烈な印象となって頭の中に焼きついた。だがやがて、その靴が無くなったことだけは否定しがたい事実だと理解した。
 優作はなんで片方ずつちゃんと投げないんだ、どうしてすぐに追いかけて取ろうとしなかったんだと直樹を非難した。直樹は自分の犯した失敗の大きさに返す言葉が無かった。そのうち優作は直樹を責めながら泣き出した。直樹はすまない気持ちでいっぱいになったが、そのときはすでに、泣きながら責める優作の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。明らかに飛距離の足りなかった靴の軌道が何度も頭の中に蘇ってきた。そして、なぜ片方ずつ投げてやることが出来なかったのか、どうしてすぐに靴を拾おうとしなかったのか、悔恨の念だけが直樹の胸を締め付けた。

 優作は優しい子だった。そして賢かった。これ以上何を言ってもしょうがないと悟ったのか、あるいは諦めたのか、優作は泣きながら裸足のまま家の方へ向かって歩き出した。もうそれ以上、直樹を責めることはしなかった。直樹は戸惑っていた。もっと自分を責めて欲しかった。その上で許して欲しいと思っていた。だが一度踵を返した優作は振り返ることも無く先に歩いていってしまっている。直樹はいっそのこと自分の靴も用水路に投げ込んでやりたくなった。

 靴を投げて寄越せと言ったのは優作だ。だから本当は優作にも非がある。だが直樹が自分を責めた理由は、もちろん靴を無事に渡してやることが出来なかったこともあるが、それ以上に、自分が投げることで落ちる可能性があることが分かっていたことだ。優作に言われた時に、もし誤って落ちたらどうするんだという不安はあったが、それならそれでもいいやという軽い気持ちがあった。いや、むしろいっそのこと落として困らせてやろうとすら思っていたのかもしれない。だからこそいっぺんに靴を投げ、そしてすぐに拾おうとしなかったたのだろう。直樹は泣きながら裸足で歩いていく優作の後姿を見送りながら、後を追う事も出来ずに佇んでいた。

 いつしか優作の影がかなり小さくなって、一人取り残された寂しさに気付くと直樹は重い足取りで歩き出した。ひたすら後悔の念にかられ、そして優作の無念さを思いながら俯いて歩いていった。悲しそうに帰っていく優作の後姿以外何も見えなかった。そして何も聞こえなかった。泣きたかった。でも優作の事を思うと泣けなかった。いつの間にか優作が視界から消え、直樹も自分の家に帰ってきた。

 母親は夕食の支度にとりかかっていた。やがて雷鳴とともに夕立が音を立てて降りだした。直樹はものも言わずに自分の部屋に入った。自然と涙が溢れてきた。何度思い返しても悔やまれる、さっきの出来事を思い出しては泣き、そして後悔した。母親が直樹の様子がおかしいのに気付いて声をかけた。部屋に入ってこようとしたので、今度は押入れに籠もって泣いた。母親はいろいろと聞いてきたが直樹は何も答えたくなかった。そっとしておいて欲しかった。

 しばらくすると優作の母親から電話がかかってきた。ようやく事情を察した母親は親同士で少し話した後、優作君から電話よと直樹を呼びに来た。直樹は戸惑っていた。本当は出たくなかったが、早くしないさいと言う母親の声にせかされて電話口に出た。さっきはごめんね。言葉に出して謝りたかったが声にならなかった。優作は逆に直樹の気持ちを察してか、とても明るく振舞っていた。今度また家に遊びにおいでよ。屈託の無い優作の声が直樹の気持ちを楽にしていた。しかし直樹は申し訳なさから二言三言返事を返すのが精一杯だった。

 それでも優作の元気な声が聞けて直樹はほっとした。全てが解決して晴れやかな気持ちになったと言えば嘘になる。例え優作が許しても自分の心が犯した罪は自分で消すことは出来ない。でも少なくとも大切な友だちを失わずに済んだこと、傷つけて泣かせてしまったことへのすまなさが優作の明るい声で救われたのは事実である。電話を切って見上げた母親の顔はにこやかに笑っている。
いつの間にか夕立は止んで、日暮れ前の西日が差している。
またセミが鳴きだしていた。

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